旧手賀教会堂内観 畳とふすまの教会堂です
旧手賀教会堂の窓。十字に区切られています。

旧手賀教会堂。新しい教会堂から600メートルほど離れたところに建っています。毎週土日に見学が可能です。

現在の手賀教会。左の三角屋根が聖堂、右の建物が信徒館。

現在の手賀教会。左の三角屋根が聖堂、右の建物が信徒館。

手賀教会について

 

手賀教会は、キリスト教の教会として、関東近辺でもっとも早い時期(明治12年)に設立された正教会の教会です。ロシア正教会の司祭、聖ニコライ(イオアン・デミトリヴィチ・カサートキン)が日本で宣教を開始した明治6年から6年後のことでした。

 

手賀教会の誕生

 

千葉県では明治8年(1875年)の法典教会(船橋市)の設立がその第一歩でした。手賀教会のある印旛郡地域には明治11年に大森(印西)に、その後、船穂(印西)、布佐(我孫子)と次々に教会が設立されました。

 

そして明治12年3月22日(1879年3月22日)に手賀に教会が設立され、12名が洗礼を受けました。

 

明治16年5月(1883年5月)にそれまでの会合場所が不便になった為、会堂の建設が行なわれます。使用していた民家を改造し、十字に区切られた洋風の窓をしつらえた、たたみ張りのかやぶき屋根の小さな建物でした。これが現在の千葉県指定文化財である旧手賀教会堂です。首都圏近郊では現存する最古の教会堂です。

 

歴史の荒波にも耐えて

 

明治の後半から、手賀教会に暗雲が漂い始めます。明治37年(1904年)に日露戦争が勃発し、正教会は『敵国の宗教』とみなされ、風当たりが強くなりました。

 

第一次世界大戦やロシア革命などを経て、正教会の聖職者は激減。第二次世界大戦直前には手賀教会から司祭がいなくなりました。司祭を失った信徒たちは礼拝の時は、数人が集まり、おしゃべりをして過ごすしかありませんでした。

 

信徒の多くが教会から距離を置き、印旛郡周辺の教会も次々と姿を消しました。米ソ冷戦が激化した1970年代には、100人以上が洗礼を受けた手賀教会も、7人の信徒が残るだけでした。礼拝は行なわれず、葬儀の時だけ知人の正教会の司祭を呼ぶような状況でした。

 

新しい教会堂の建設

 

しかしこの時期、教会堂の建物を移築する話が持ち上がります。この話を聞いた旧沼南町は手賀教会堂を文化財として評価し直し、敷地ごと買い取ることにしました。このことが信徒たちが自らの信仰を見直すきっかけになり、新しく教会堂を造ることにつながりました。

 

新教会堂の建設前、ほぼ30年ぶりに司祭が派遣されてきました。信徒たちは礼拝未経験者ばかりでしたが古参信徒と本部の対話により、昭和49年(1974年)に新しい教会堂が建設され31人が洗礼を受けました。

 

絶えることのない手賀での信仰

 

それから更に40年が経ちました。現在も月に一度、横浜ハリストス正教会から司祭が来て礼拝が続けられています。

 

礼拝が終わると隣の集会場で、持ち寄った食べ物をみんなで食べて、司祭も一緒に世間話をしながら、一つ二つと正教会の教えの理解を進めています。

 

世の荒波があっても、地域とのつながりを大切にしながら、130年を超える歳月を経てきました。正教会の信仰はしっかりとこの地に根付いています。これからも地域の信仰を見守り、小さいながらも人の絶えない教会であり続けるでしょう。